「肝臓移植顛末記」   〜 加藤 望 〜     
 第二の誕生日
2002年9月28日。この日は私にとって第二の誕生日。そのとき私は43歳だったが、二度目の地上の生涯をスタートさせた。
その日、私はアメリカ合衆国テキサス州ダラス市のベイラー大学メディカルセンターで肝臓移植手術を受けたのだった。ドナーは脳死の方。後で密かにわかったことだが、39歳のヒスパニック系男性だ。ドナー情報はレシピエント(患者)側には一切明らかにされない。私の場合は病室に張り出された記録に、黒く塗りつぶしたドナー情報があり、明りに透かしたところ微かに見えたのである。


 母子感染型B型慢性肝炎の悪化→肝硬変→肝細胞ガン

なぜ肝臓移植が必要になったかというと、元々私は母子感染型B型肝炎ウイルスの保菌者であった。成人しても2割程度の人しか発病しないそうだが、特に男性が発病した場合、1割の人が移植が必要なほど重篤化するそうだ。運悪く私はその1割の中に入ってしまったわけである。40歳過ぎてから、よく風邪をひいたり、胸やけがしたり、と体調が悪い状態が続いていた。24歳でアメリカに渡って16年。卒業した大学の非常勤講師の仕事や、不定期でポンプ工場の仕事(身長2m体重120sはあろうかというアメリカ人の大男たちと一緒!)もこなしていた。174cmで85sという体格だったが、持久力では彼らに負けない自信があった(瞬発力はかないません)。
1999年の夏、とうとう私の身体は悲鳴をあげた。左ひじに浮腫ができて微熱が続き、全身倦怠感に襲われたのだ。目じりが黄色く、尿は紅茶色になっていた。明らかに肝臓が悪くなっていたのだ。恐る恐るアメリカの病院で診察を受けたところ、肝硬変非代償期で食道静脈瘤がボコボコにできているとのこと。まさかこんなに悪くなっているとは思いもよらなかった。肝臓が沈黙の臓器と言われる所以だ。肝臓の1割でも機能すれば、人間は生きていけるのだそうだ。健康保険もないアメリカでの治療を諦め、急遽日本に帰国となった。東京の肝臓病で有名な病院で、脾臓摘出と食道静脈瘤処置手術を受け、私は一命を取り留めた。半年後には、実家のある東京から現在の広島福音教会の牧師として派遣されることになった。
2000年の春に広島に来たが、肝臓の状態は良くなかった。しかし、仕事をして家族を食べさせるのが男の責任。教会の皆さんのご理解を頂いて、無理のないスケジュールで牧師職に当たっていた。ところが、2000年の秋には胆嚢摘出手術を余儀なくされ、その後も入退院を繰り返し、ついに2001年の秋には肝細胞ガンが二個見つかった。「ついに来るところまで来たな」というのがその時の感慨だった。けれども主治医の話では、肝臓に針を刺してラジオ波焼却治療をするとのこと。「ガン治療もここまで簡単になったのか。ガン=死という方程式はもはや成り立たないんだ」。そう思ったら私の心は軽くなった。

 肝臓移植宣告、そして生体肝移植の断念

2002年1月に大学病院に入院して、いよいよガンの治療が始まると思ったが、医師団はなかなか治療に踏み切らない。なんでも血液検査の結果が悪すぎるというのだ。よく聞いてみると、肝臓のタンパク合成がうまく機能しておらず、血液凝固因子が20%しかないとのこと。これでは針を刺したら出血多量で死んでしまうというのだ。他の外科的手術も無理だという。私の肝臓はもはや肝不全に陥っていたのだ。
「…移植しかありません」。主治医から告げられた言葉はあまりにも唐突で、実感が伴わなかった。全身の血の気が引き、腕や足がジーンと痺れていく。遠ざかっていく意識を何とかつなぎとめながら、「親族でドナーを探してください」という医師のことばを聞いた。横にいた家内は気丈に振る舞っていた。とにかく家族や親戚にドナーになってくれる人がいないかどうか探さなければ、と家内はただちに電話ボックスに向かった。でも「あなたの肝臓を半分分けて下さい」などと、普段から会ってもいない親戚に尋ねるわけにはいかない。途方にくれていると、幸い妹の旦那がドナーを名乗り出てくれた。血液型も同じO型で、身体のサイズも大体同じだ。
2002年5月初旬に移植手術の日程が決まった。4月には河野洋平元衆議院議長が息子さんの太郎氏から提供を受けて、生体肝移植が実施された年であった。私も義弟と一緒に、期待と不安が入り混じりながら手術の日を待ち望んでいた。ところがである。術前検査で、義弟の肝臓静脈の流れが普通の人と違うことが判明し、移植不適応になってしまったのだ。私は自暴自棄になって、その日のうちに無理を言って退院させてもらった。義弟も申し訳なさそうに詫びるが、決して義弟が悪いわけではない。私は牧師なので、これも神の思し召しと思い、自らの死を覚悟した(移植が必要な患者は余命一年未満とされる)…つもりだった。今思えば判断停止、死の恐怖から逃れるために何も考えようとしない状態に陥っていたと言える。

 海外での脳死肝移植に向けて

家族は具合悪そうにソファに横たわる私を見て、腫れ物に触るようだった。そんなある日、アメリカで脳死肝移植を受けた方の体験を綴った本が私の眼に止まった。以前、入院中に家内が教会の薬学博士の方から借りていた本で、私に読むように勧めてくれたのだが、読まずに放っておいたのだった。私の眼に止まるところに家内がそっと置いておいてくれたのだ。私は一晩で読みえて、同じテキサス州ダラス市のベイラー大学メディカルセンターに行ってみようという思いになった。家内や子どもたちも、そこが良いと賛成してくれた。幸いにも、友人がダラスに留学していたことを思い出して電話してみると、彼のアパートから10分のところにある病院とのこと。すぐに電話番号を聞いて、自ら移植に向けて交渉を始めた。日本国内での脳死肝移植は50人待ちの状態で(2002年当時。今では100人待ち)、私は30番目くらいになると聞いていた。国内での手術例は年に2〜3回で、10年も待てるわけがない。治るためには海外での移植手術に踏み切るしかなかったのだ。しかし、そのための費用、つまり病院に前もって納める保証金が40万ドル(当時の為替レートで5000万円)という莫大なお金がかかることが分かった。孫子の代まで借金を抱えるわけにはいかない。しかし牧師は財産も不動産もなく、借金する手立てもないのだ。電話を切った私は再び自暴自棄になって判断停止、ふて腐れて諦めてしまった。
そんな時に、教会員やサムエル幼稚園のお母さんたちが、「お子さんのためにも生きて下さい」「私の肝臓を使って下さい」(注:生体肝移植のドナーは3等親以内の親族のみ)等と、温かい励ましの言葉をかけて下さったのだ。ジャムの空き瓶にびっしり詰まったお金が玄関の外に置いてあったり、健康のためにといって山から汲んできた水が置いてあったり、私にはもったいないくらいの多くの皆さんからのサポートが寄せられた。友人の牧師たちや、恩師の牧師先生方が「加藤望牧師を支える会」を立ち上げて下さり、NPO法人日本移植支援協会の助けを得て、記者会見、そして募金活動と、私がくよくよと考えている間にトントン拍子で援助の輪が広まっていったのだった。こうして3週間で5000万円の募金が集まり、私は無事にアメリカに渡航することができたのである。募金は日本国内のキリスト教関係者のみならず、海外のキリスト教会や団体からも届けられた。また記者会見をテレビで見た一般の方々からも沢山届けられた。「40代男性で肝臓移植となると、なかなか募金は集まりにくい」と聞いていたが、正に奇跡的に短時間で募金が満たされたことに驚きを禁じ得ない。何ともったいないことだろうとつくづく思う。全ての事どもの背後におられる神に感謝するのみだ。

 ついに来た!肝臓移植手術

2002年7月18日、私は家内と子ども二人を伴ってアメリカはテキサス州ダラス市に飛んだ。不思議なことに生きて帰れないかもという不安は一切なかった。手術成功率100%を誇る病院であることもそうであったが、ここに至るまでの全ての困難を、神が導いて乗り越えさせて下さったから大丈夫、という何とも言えない安心感があったのだ。
ついたらすぐに術前検査が一週間続いた。ルームランナーの上を走らされたり、検査室から検査室まで結構な距離を歩かされたり、体力のない重度の肝臓病患者にとっては過酷な毎日だった。でもここで車椅子に乗ったりすると、それだけで手術に耐える体力がないとして待機者リストに載せてもらえないのだ。栄養士からは「とにかく何でも食べて。ただ塩は一日1gだけ」と言われ、ステーキやピザを食べた。湿気のない気候のお陰で食欲が倍増したのだ。肝機能の数値も改善していた。日本にいるときは内科治療だったため、減塩低カロリー食で、肝性脳症予防のため蛋白質摂取も制限されていた。しかし、そのために身体が栄養失調になり、筋肉の蛋白質を使っていたことを知らされて愕然となった。どうりで力も出ないはずだ。
こうして、私は極度の体力低下を招くことなく、肝機能も少し改善した状態で(ガンも一個消えていた)、待機者リスト血液型O型の5番目にリストされた。早速ビーパーを渡されて、24時間いつでもドナーが現れたら6時間以内に病院に来るように申し渡された。嬉しさよりも不安の方が大きかった。いつビーパーが鳴るのかと絶えず緊張を強いられるような気がして、精神的に休まらないのだ。
幸いわずか6週間の待機で、2002年9月28日、私は脳死ドナーの方からの肝臓移植手術を受けることができた。それまで2度ほど、ビーパーが鳴ってバックアップ(その患者さんに合わなければ私が移植手術を受けることになる)として病室で待機したことがあった。中耳炎になって待機者リストから外されたこともあった。その都度、一喜一憂して辛い思いもしたが、すべて本番のための準備であったと思う。
手術自体は5時間ほどで終わり、ICUにも一晩だけいて、すぐに一般病棟に移された(すべて個室)。拒絶反応などがなければわずか6日で退院と聞かされ、度肝を抜かれた。個室に移ってすぐに立つように言われて体重測定、自分でトイレに行くために尿管を抜かれ、廊下を歩くように言われた。究極のスパルタだ!歩け歩け、そして食べろ食べろ。確かにお腹は空いていた。確か三食目から普通食になり、なんとローストターキーと野菜サラダ、そしてアップルパイにコーラが出てビックリであった。手術前までは、食べるのが怖かった。すぐに胃もたれしたりして苦しくなったから…。しかし食べても大丈夫なのだ。日本の病院だったら、さしずめ、お粥から始めるのではないだろうか。開放的で大胆なアメリカ式治療法というわけだ。でもその方が体力の回復も早いのだそうだ。
私の場合は、拒絶反応が出て(今では血液検査と肝生検で分かる)、6日で退院とはいかなかったが、2週間で退院した。退院といっても、手術前から住んでいた、同じ病院の敷地内にある移植者専用アパートTwice Blessed House (二度の祝福を受けた者の家) に帰るだけなのだ。そこか、あるいは近くのアパートに住んで3か月間毎週最低一回の検診を受けることになる。それが日本で言うところの入院期間なのかもしれない。私たち家族は、ダラス日系人教会の牧師先生ご夫妻や教会員の皆さんの助けを借りて、近くのアパートに引っ越し、検診や必要な処置を受けることができた。子どもたちも現地校に通って、すっかりダラス訛りの英語を身につけたようだ。
ベイラー大学メディカルセンターは、肝臓移植においては全米でトップ5に入る病院である。キリスト教系の病院であり、中にはチャペルがあったり、牧師(チャプレンという)が何人かいたりして、必要な時に来て祈ってくれる。医師や看護師、スタッフも熱心なクリスチャンの方たちがほとんどであった。私は同じ信仰を持っている者として、言葉や文化を超えた不思議なつながりを感じた。
私がとっても慰められ励まされた聖書の一句を紹介したい。それは朝食のトレーに乗っていたものである。拒絶反応が収まらず、最終手段(と私は誤解していた)の強力な免疫抑制剤OKT3投与による強烈な副作用(40度以上の熱と悪寒)が治まった朝のことであった。

「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ」(旧約聖書イザヤ書43章1節)。

朝の祈りをささげながら、私は感涙にむせんだ。死の恐れのただ中に、この聖書の言葉が神の言葉として私に臨んだのだから。神が「あなたはわたしのもの」とおっしゃって下さるのだ。地上の第二の人生を、神のため人のために捧げたい。

 移植手術、その後

肝臓移植手術を受けて、私の身体にはドナーの方のDNAも共存している。しばらく日本のうるち米が食べられなかった。口の中で水のようになってしまうのだ。長くてぱさぱさの外米の方が食べやすかったりして…。また味噌汁が大好きだったのだが、ちょっと飲みすぎると下痢になってしまう。ヒスパニックの肝臓君の消化酵素が、大豆発酵食品を受け付けないようである。今はだいぶ改善して、日本食も大丈夫になってきた。それでも、特に手術を受けた時期になると、メキシカン料理(タコス、ブリトー)などが食べたくなる(学生時代も食べていたので)。
免疫抑制剤は一生飲み続けなければならない。私を含め、世界の肝臓移植患者の70%が飲んでいるのがプログラフ(タクロリムス)で、日本のアステラス製薬の薬だ。12時間おきに一日二回飲む。免疫抑制剤は、自分の免疫システムが移植された臓器を敵とみなして攻撃しないように、その力を抑制するのだ。だから手術を受けて間もない時は、感染症にかからないようにするのが大変であった。私はもうすぐ8年になろうとしているので、感染症に罹りにくくなっているが、それでも普通の人と比べればリスクは高い。

 臓器移植法改正案A案が2009年に可決され(自民党麻生政権下)、2010年の7月から施行される。脳死を人の死と認め、ドナーの年齢制限(今までは15歳未満のドナーを認めず)を撤廃し、親の承諾があれば0歳児でもドナーになれるようになった。移植を待つ患者、特に今まで海外しか選択肢がなかった重篤な心臓病や肝臓病を抱えた幼児や子どもたち、そしてその親御さんにとっては朗報である。しかし、政権末期の麻生首相の下、国際移植学会イスタンブール宣言(2008年)による原則海外渡航移植禁止という決定(これは2009年5月のWHOで採択されることになっていた。根底に自国の患者は自国でという国際医療倫理がある。これは海外渡航移植に頼る日本への批判でもある)に迫られて、あまりに短時間で決められた改正案なので、色々な不備があると思う。もっと草の根で、移植医療に対する啓発を進めていく必要を感じる。
また誤解しないでいただきたいのは、ドナーにならないという権利も、ドナーになるという権利も平等に認められなければならないことである。日本の世論は、ともすれば両極端に振れやすい。移植法改正案が施行されたからと言って、皆がドナーにならなければならないということではないのだ。同時に、ドナーになるという意思表示が確実に尊重されることも担保されなければならない。より成熟した社会になるために、違う立場の人々の意見が公にされ、議論が深まっていってほしい。そして、これ以上、海外の高度移植医療に頼らざるを得ない「医療難民」を増やさないでほしい。なぜなら日本人医師の中に、優秀な移植外科医はたくさんおられ、海外で活躍されている方も多いのだ。優れた医療機器、優れた医療人がいる先進国日本が、移植医療に関して後進国であってはならないと思う。
最後に、私に第二の地上の人生を与えて下さった神と、ドナーとそのご家族に心からの感謝を捧げたい。